先日、朝日新聞の夕刊で柿沼徹さんの詩が掲載された。新聞の詩は、行数の制限があるので物足りないものが多いけれど、柿沼さんにはむしろこうした条件は合っている気がする。最新詩集『もんしろちょうの道順』の詩も、どれもそう長くはない。この詩集のなかでは「コロのこと」という昔の飼い犬を書いた詩がとても印象的なのだが、今回の詩もまた読んでしんみりする、よい詩であった。 柿沼さんに白羽の矢を立てた朝日の担当者は目が高い、と思う。今回の詩は、犬ではなく、対象が「ダチョウ」。 ダチョウ ここしばらく地中の穴に 頭を突っ込んでいた ら あのひともいなくなっていた あのひともいなくなった ということが 見渡す限りつづいている この灌木の影が落ちている地名の 殴り倒された広さ… 炎天の 若い葉たちは 叫ぶ 首を立てる 睨む いないことへの あらゆる方位が 犇めいている しかたなしに走り出す 地平が 後ずさりしながら 目の前に差しだされる あのひとの呻き あのひとの 裂け目 声みたいに 一連目に出てくる「ら」で改行する手口は、人の意表を突く。でも、この改行のタイミング、がいい。まねしたいが、これほど特徴的な改行を真似ると、一発でばれてしまう。 柿沼さんはわたしより少し年齢が上。身の回りにそろそろ死体が出始める年ごろである。「あのひともいなくなった/ということが/ 見渡す限りつづいている」という行が切ない。あるいは「いないことへの/あらゆる方位が/犇めいている」という言葉。「いなくなったひと」は、もちろん誰でもありうる。ここに代入する人々は、読み手の周りにもたくさんいるだろう。それがダチョウなのかどうかは分からない。ダチョウであってもかまわない。 しかし「目の前に差しだされる」声のような「裂け目」は、やはりこの詩でなければならない。 短い行でこういう風に書いてみたいと思うが、それはなかなか叶わない。