のどを猫でいっぱいにして

 これまで読んだことのなかった詩集を手にしたので、思わず何篇も引用をしてしまった。松井啓子をはじめて読んだのは、詩集『のどを猫でいっぱいにして』だが、昨日あらためて手に取ってみたところ、けっこう忘れていた詩篇が多かった。記憶力が悪いから如何ともしがたい。一方で、よく覚えているものもある。たとえば、「煙」という作品。これは、最初の一連目でやられた。

むきは風で
長さは
焼きあげるものの大きさできまる

かまはそこに二つあった
ひとつは人間のためのもので
もうひとつは犬や猫のようなものを焼く
今も昔も変わりなく

死んで生まれた子や 産まれなかった子供の体は
犬や猫と一緒に
小さい方のかまで焼く

焼くほどのかたちにすら育っていないものは
そのまま裏山の土に埋め
掃き集めた草や木の葉に火をつけて
煙をあげ
焼きましたとだけ伝える

 見開き2ページに収まっている詩篇で、短い。分量的にはソネットと同じくらい。人間と犬猫、子供の区分を煙が測量しているわけだが、最後に「焼きましたとだけ伝える」と結ばれている。この「とだけ」の言葉の締め方がいい。言葉は締めるだけでなく、贅言があった方がよい、という見方もあるかもしれないが、ま、読み手にはどっちでもいい。要は脅迫的な退屈を強いられなければ、それでいいのである。
「最近の人は、連分けをしないよね。廿楽クンもそうだけど。何か怖がってるのかな」といようなことを、前に松下育男さんに言われた。これは怖い指摘であった。そうなんです。怖がってるんです。だから饒舌になってしまう。
松井啓子のこの詩は特に特徴的な連分けがされているわけではない。オーソドックスなのだけれども、いざ書こうとするとこれは意外に難しい。連分けは、どこかで言葉を足りなくさせることに繋がっている(と思ってしまうが、それは書き手だけの狭い視点なのだ)。

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