くだもののにおいのする日2

 ブログを縦書きにしてみた。でも、ブラウザの幅を小さくすると、右側のアーカイブや検索の窓が本文にかぶってしまう。コラムの幅を固定するのに、どこをいじっていいのか分からないのでそのままにする。
 さて、前回に続いて、また松井啓子の詩を。
 といっても、こういう詩についてはあまり無駄口をたたきたくはない。読めばいいのである。今日はふたつ。どちらも短いし、あまり大げさな道具立てを使っていない。かといって、日常だの暮らしだのと、安易に口にできるような文脈からはちょっと外れている。うまいなあ。
うまい詩、などというと、「けしからん。こころざしが低い」と怒る人はいるかもしれない。文学なんだからもっと深刻になるべし、ということなんだろうけれど、やっぱりへたな言葉を延々と読まされるのは嫌だ。なんで俺がそんなものに付き合わなければならないのか、と思ってしまう。でもその嫌な体験こそが君を違う世界へ開くのだ、というためには、かなり脅迫的な「現代詩」というジャンルの後ろ盾が必要だ。

 

 

 パート

パート
という種類の梨を
隣りのベッドでむいている
きのう子供を死産した女が
きょう梨を食べている
父親の果樹園からいまもいできたのだと
ちいさく夫が言っている
やっぱりうちのがいちばんだと
ひそひそ妻が言っている
同室の人びとにふるまうことを忘れて
むけばむくだけ女は食べ
残るひとつを見おさめて
男はバイクで帰っていく
夜 寝しずまった室内に 低く
果実のにおいが残っている


 絵葉書

柴折戸をしめると
この庭は いつも夕方です
鉛筆で描いた柵ですから
わりと器用に空が暗くもできるのです
前庭に植わったいっぽんの木から
しいなのしいの実が落ちてくると
顔をあげ 手をあわせて受けとめます
この柵のむこうが海原であるかくさはらであるかは
わたしもまだ知らされていないのです
わたくしは出かけないでしょう
わたくしは 裏庭の
子供のござに
ひとりのお茶に
よばれていますので

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です