月別アーカイブ: 2016年7月

竹橋

だが。
竹でできているものは何ひとつない。
どこを渡らされたのか。
小さく。うすい字で何かが。
わからないように展示された館内。
黒いスカートの、
おどろくほどふとい足が。
どこにもないなよ竹をのぞいている。
(ふといな、おどろくほど。)
じじいが白く。
おどって、美術のなかでほろびているわ。
竹を割ったような。
(となりの二本足。)
そういう亡魂のおまえだ。
水はわたしたちのすぐ近くにある。
おどろけ。

モスラ


 とうとうザ・ピーナッツがおふたりとも亡くなられた。ファンというわけではないが、子どものころからなじみのある歌手だったので、それなりの感慨がある。今度作った『詩集 怪獣』にもザ・ピーナッツがでてくる。もちろん、モスラがらみである。モスラは善玉ということで、人気があったようだが、わたしはあまり好きではない。顔がさえないし、結局は芋虫だもんな、というように思っていた。映画自体にもあまり熱中した記憶はないが、しかしザ・ピーナッツのふたりの声の重なりは記憶に深く残っている。『詩集 怪獣』に入れた詩を、追悼の意を込めて引用しておこう。

 モスラ、や
呼ぶときのわたしはふたりだった
アンタトワタシ
きみわるいくらいに声がぴったり合った
むやみに大きくて
動きまわるだけのあれ
手足もないのに
恥ずかしくも名まえをつけられてしまった
きみはばかだな
南洋の土人から呼び捨てにされたくらいで
泣くやつがあるか
死んで小さくなった子どもらは
ようやく
やってこなかった宿題のことを告白する
海ヨリ深ク反省シテマース
だがだいじょうぶ
きみらが大人になるころ
東京はあの夕焼けみたいに
もののみごとに崩壊しているさ
モスラ、や
もすら、ときたもんだ
そうやって声を合わせていると
わたしは多数であることを
泣いてわすれてしまう
なむみょうほうれんげきょう
もう死んでるからといって
(おじいさんたちも)
わがまま言わずに
ふたりとも
ちゃんと公園へ避難してくださいね

『詩集 怪獣』


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 明日七月一〇日は、詩誌『ガーネット』と『Down Beat』のスタッフとして、ポエケットに参加する。会場は江戸東京博物館。例年、この二つの詩誌は同じ机で出展するので、店員として兼務ができる、というわけだ。同人の詩集も販売される。小川三郎さんはいつも自選のアンソロジーを作成して販売するので、これに感化されて当方も初物をもっていきたいと思っていた。で、今年は新しい詩集『怪獣』をもっていく。柴田千晶さんも自選のアンソロジーをこの日のために作成したらしい。わたしは『怪獣』に加えて、『ハンバーグ研究』というのももっていく。これはこのブログで書いた短詩もどきをまとめたものなので、小詩集という感じであろうか。これらはいずれ、このブログで注文できるようにするつもり。
 宣伝がてら、詩集『怪獣』冒頭の詩「みかどパン」を転載しておこう。原文は下揃えで、みんなに読みにくいと不評のスタイル。しかし、これは後期の会田綱雄への敬意のしるしなので、しばらくはやめられない。この詩は、前に柿沼徹さんが主宰した東京上野・根津近辺の散歩会のときにみた実在のお店「みかどパン」に触発されて書いたもの。こういうパン屋、子どものころには京島なんかにはあったよなあ(実は今もある)、という気分だけで書かれている。

 みかどパン

そこにはめじるしの木があり
わたしたちの群れは
おおきくふたつに分けられていた
みかどパンが
しつこく
暗いパンのしつもんをする
こどもたちはつらい選択をせまられた
ジャムか
つぶあんか
その片ほうでしか
結局にんげんは生きていかれない
みかどパンの主人は
一度も店の奥からあらわれず
なにも助言しない
(あっ、そう)
えらべないこどもらは
木の前で長くさびしい影になってならんだ
かれらには世界はまだ分かたれていない
それがしあわせかどうか
みかどパンの主人は
あいかわらず何もいわない
(あっ、そう)
わたしたちはいつも
みかどパンの前に
日暮れまで放置されているだけ
そこには
ためらうためのめじるしの木があった

 ここにでてくる「あ、そう」は昭和天皇のモノマネだが、今では注を入れないとわからないかもしれない。しかし、詩においてわかることはそんなに大事なことではない。教養を伝えるために書くんじゃないのだから、当たり前である。