「詩の話をしよう」カテゴリーアーカイブ

くだもののにおいのする日3

 引き続き、また松井啓子の『くだもののにおいのする日』からを引用する。
 先週の休みにいくつか写経のように松井啓子の詩篇を書き写した(といっても、パソコンで入力したわけであるが)。青少年の頃は、好きな詩篇をときどきノートに書き写した。読解的にいくら読んでも、書く時にはあまり役に立たない。スポーツと同じで見るのとやるのとでは全然違う。自分の手を使って書くと、体で辿っている感じになって、いつもとちょっと違う。とまあ、勝手な理屈で実践していた。なんだか、しゃっくりには砂糖湯がよい、というような民間療法に近い。
 ようやく読めた詩集なので、なるべく他の人にも知らせたい、というのもあるが、やっぱりどこかで自分の血肉にしたい、という下世話な欲望があるのである。散文詩の部分は、書き写すのがめんどうなのでどうしようか迷っているが、行分けに関してはできればぜんぶ写したい。
 書き写したくなるような詩は、たぶん自分にとって一番よい詩なのである。読んですごいなあ、と思っても、書き写したくならないものもある。それは究極のところで、自分が書く場合には関係ない詩のような気がする。世間的に評価の高い詩と、自分の写経の詩は分けて考えた方がよいのかもしれない。


  雨期

はじめ ひき出しの中に音がして
それからキチンにそれから居間に
ついには家全体に音がして
その国では
雨は家の中にふる
雨がふり始めると 人びとは
大急ぎで家を飛び出して
屋根をひとはけで真黄色に塗って
板壁をもうひとはけで真青に塗って
あとから 思い出したように赤く
ちいさい窓を塗っている
そのあとで 持ち出した大鍋で
きものを色とりどりに染めている
その国では雨期は
家の外でくらすのである
家の外側の原色をながめてくらすのである
湿った毛織物のにおいのする
雨後の子らが
家の中にはえそろうまで
人びとは
かわるがわる
赤いちいさい窓の中を
のぞいてくらす
雨はやがて小降りとなり
小さな居間に
それからキチンに
最後にひき出しの中にふりやむと
その国では
雨は家の外にふる
長くながくふりつづける

くだもののにおいのする日2

 ブログを縦書きにしてみた。でも、ブラウザの幅を小さくすると、右側のアーカイブや検索の窓が本文にかぶってしまう。コラムの幅を固定するのに、どこをいじっていいのか分からないのでそのままにする。
 さて、前回に続いて、また松井啓子の詩を。
 といっても、こういう詩についてはあまり無駄口をたたきたくはない。読めばいいのである。今日はふたつ。どちらも短いし、あまり大げさな道具立てを使っていない。かといって、日常だの暮らしだのと、安易に口にできるような文脈からはちょっと外れている。うまいなあ。
うまい詩、などというと、「けしからん。こころざしが低い」と怒る人はいるかもしれない。文学なんだからもっと深刻になるべし、ということなんだろうけれど、やっぱりへたな言葉を延々と読まされるのは嫌だ。なんで俺がそんなものに付き合わなければならないのか、と思ってしまう。でもその嫌な体験こそが君を違う世界へ開くのだ、というためには、かなり脅迫的な「現代詩」というジャンルの後ろ盾が必要だ。

 

 

 パート

パート
という種類の梨を
隣りのベッドでむいている
きのう子供を死産した女が
きょう梨を食べている
父親の果樹園からいまもいできたのだと
ちいさく夫が言っている
やっぱりうちのがいちばんだと
ひそひそ妻が言っている
同室の人びとにふるまうことを忘れて
むけばむくだけ女は食べ
残るひとつを見おさめて
男はバイクで帰っていく
夜 寝しずまった室内に 低く
果実のにおいが残っている


 絵葉書

柴折戸をしめると
この庭は いつも夕方です
鉛筆で描いた柵ですから
わりと器用に空が暗くもできるのです
前庭に植わったいっぽんの木から
しいなのしいの実が落ちてくると
顔をあげ 手をあわせて受けとめます
この柵のむこうが海原であるかくさはらであるかは
わたしもまだ知らされていないのです
わたくしは出かけないでしょう
わたくしは 裏庭の
子供のござに
ひとりのお茶に
よばれていますので

くだもののにおいのする日

 先日、「ガーネット」の元同人だった阿瀧康さんから、松井啓子の第一詩集『くだもののにおいのする日』を送っていただいた。
 自分が持っているのは、若いころ買った思潮社の女性詩叢書の『のどを猫でいっぱいにして』と『順風満帆』。第一詩集は読んだことがなかった。八〇年代の女性詩(という言い方があまり好きではないが仕方ない)は、たいそうおもしろく、うまい詩が多かった。なかでも松井啓子はピカ一だったのではないかと思っている。あれから三〇年になるが、今の詩はこの時期の水準を超えているだろうか。
 もっとも三〇前だってこねくり回した詩は多かったろう。そういう詩が忘れられてしまうのは仕方ないが、松井啓子まで一緒に流されたんじゃたまらない。
 とりあえず、詩集名になった詩を引用しておこうかな。

  くだもののにおいのする日

下宿のおばさんは
暑いさかりに 日帰りで
京都に納骨に行くのだ と言った
わたしは銭湯へ出かけ
髪を洗う女のひとの
長いながいしぐさを見ていた
まだ明るいうちの湯舟の色と
流れてたまる湯水を見ていた
夕立も長雨も
局地的な大雨も
小さい女の子の小さい局部も
長なすも丸なすも
ふたなりの動物も見たことがある
わたしは見知らぬ土地へ出かけ
バスの窓から
土樋 という地名を見ていた
列車の窓から
ここより新潟
という文字を見送ったことがある
にわかに雹が降り出して
なすや大ばこの葉が
つぎつぎに裂けていくのを
雨のまに草木が伸びて
はじめにあおいの花が咲き
つぎに除虫菊が裂き
それからクレオメの花が咲き
つぎつぎと夏の花が咲きついでいくのを
二階の窓から眺めていたことがある
わたしは銭湯へ出かけ
手を休めて
今朝の雷の意味と
誰かがわたしを
わたしが誰かを
どんな名前で呼ぶあっていたのだったかを
思い出しに行くのだ と言った