「詩の話をしよう」カテゴリーアーカイブ

ダチョウ

『チューリップ時代』

 元「ガーネット」同人の阿瀧康さんから、またまた貴重な詩集をいただいてしまった。いつもいただくばかりで何もお返しができないのが情けない。先日、松井啓子と荒川洋治の詩集をえらべ、と言われて思わず松井啓子を選択してしまったが、今回はその時選にもれた荒川洋治の貴重な詩集『チューリップ時代』(てらむら・一九八二年第二刷)をいただいたのであった。
 高校生の、まだ現代詩に接し始めた頃、思潮社の新鋭詩人シリーズの『荒川洋治詩集』はよく読んだ。でもある時期から荒川洋治を離れてしまった。こういう人は多いのではないかと思う。『チューリップ時代』の荒川洋治は、もちろん古い方の、「あたらしくはないぞ、わたしは」という方の荒川洋治だ。ぱらぱらとめくったら、当時現代詩手帖などに掲載された作品が目に付いて、とてもなつかしくなってきた。
 高校生の時に一年ほど現代詩手帖を定期購読した。当時、東京の風景写真に荒川洋治が詩を何編か添えた小特集があった。そのうちの一篇が好きで、のちに全詩集でも探してみたが、収録されてはいなかった。それはこの『チューリップ時代』に入っていたのであった。この詩集は、「全未刊詩篇」と銘打たれていて、全詩集に収録されてないものがずいぶんあるようだ(まだぜんぶ読んでないので詳しくは分かりません)。三段組で、十一歳の処女作「夜の道」含む一〇九編がおさめられている。話には聞いていた詩集だが、荒川洋治から離れていたので、正直、そんなに興味がわかなかった。でも、ちょっと覗いてみると、当時の気分が思い出されて、やっぱり荒川洋治はいいよなあ、という風になる。
 ということで、高校生の頃好きだった一篇を。

プレイバック・銀座

シローという、これは珈琲店だった
あなたは一八の誕生日
袋をかかえ
白い円テーブルの彼岸に
鴨のようにすわった
シルバーシート四丁目
袋のなかは
ソニーの電球一個
もとめたもののすべてでは
ないが
銀座で買えるものは
その日それしかなかった
外光は鮎のようにしなやか
かわいいゆびで
袋のなかの空を
天井からかるくしぼっている

  初出「現代詩手帖」一九七八年七月号

 もう、ほんとにうまいとしかいいようのない詩である。「シルバーシート四丁目」とか「ソニーの電球」、「もとめたもののすべてでは/ないが」なんて言葉は、今でもあこがれてしまう。最後の「袋のなかの空を/天井からかるくしぼっている」というのもかっこいい。「かるく」というのがまたおつである。
 詩はうまいだけではだめだ、という人はよくいるが、そういうセリフはこれくらい書いてから言わねばならない。
 最近の詩人は仲間内だけで褒め合っている、自閉的だ、というようなことを荒川洋治は言っている。さもありなん、と多くの人は賛同していると思う。少し前なら、鮎川信夫とか飯島耕一あたりがやってたような、活の入れ方である。でも、それを真に受けて、荒川洋治の詩を読んだ人は、あれれ、となるであろう。叱咤のセリフは分かりやすいが、詩の方は一筋縄ではいかない。
 最近の荒川洋治の詩、実は好きなのである。とらえどころがないところに凄みさえ感じる。初心に帰って、やっぱり荒川洋治を読もうと思う今日この頃である。

のどを猫でいっぱいにして

 これまで読んだことのなかった詩集を手にしたので、思わず何篇も引用をしてしまった。松井啓子をはじめて読んだのは、詩集『のどを猫でいっぱいにして』だが、昨日あらためて手に取ってみたところ、けっこう忘れていた詩篇が多かった。記憶力が悪いから如何ともしがたい。一方で、よく覚えているものもある。たとえば、「煙」という作品。これは、最初の一連目でやられた。

むきは風で
長さは
焼きあげるものの大きさできまる

かまはそこに二つあった
ひとつは人間のためのもので
もうひとつは犬や猫のようなものを焼く
今も昔も変わりなく

死んで生まれた子や 産まれなかった子供の体は
犬や猫と一緒に
小さい方のかまで焼く

焼くほどのかたちにすら育っていないものは
そのまま裏山の土に埋め
掃き集めた草や木の葉に火をつけて
煙をあげ
焼きましたとだけ伝える

 見開き2ページに収まっている詩篇で、短い。分量的にはソネットと同じくらい。人間と犬猫、子供の区分を煙が測量しているわけだが、最後に「焼きましたとだけ伝える」と結ばれている。この「とだけ」の言葉の締め方がいい。言葉は締めるだけでなく、贅言があった方がよい、という見方もあるかもしれないが、ま、読み手にはどっちでもいい。要は脅迫的な退屈を強いられなければ、それでいいのである。
「最近の人は、連分けをしないよね。廿楽クンもそうだけど。何か怖がってるのかな」といようなことを、前に松下育男さんに言われた。これは怖い指摘であった。そうなんです。怖がってるんです。だから饒舌になってしまう。
松井啓子のこの詩は特に特徴的な連分けがされているわけではない。オーソドックスなのだけれども、いざ書こうとするとこれは意外に難しい。連分けは、どこかで言葉を足りなくさせることに繋がっている(と思ってしまうが、それは書き手だけの狭い視点なのだ)。